チェスカチェアの歴史:マルセル・ブロイヤーはいかにしてスチールと手編みの籐を融合させたか
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パイプは冷たかった。だから、より柔らかな肌を編み込んだ

すべての始まりは、自転車のハンドルバー
マルセル・ブロイヤーがヴァイマルのバウハウスにやって来たのは1920年。ウィーン美術アカデミーの絵画課程を中退した、19歳の青年だった。彼はすぐに頭角を現し、1920年代半ばには学校の家具工房長に就任した。デッサウへ移る途中、その工房で彼はスチールパイプに目を留めた。この素材は、まったく別の用途、つまり自転車のフレームとして、すでに信頼され、大量生産されていた。スチールパイプをハンドルバーの形に曲げて乗り手の体重を支えられるなら、椅子に座る人の体も支えられるはずだ、とブロイヤーは考えた。
その発想から1925年に生まれたのが、初のスチールパイプ椅子、ワシリー・チェアだ。ブロイヤーのバウハウスの同僚、ワシリー・カンディンスキーにちなんで名付けられた。3年後、さらに難しい課題が持ち上がった。後ろ脚を使わず、パイプを一本の連続した線のように曲げられるだろうか?その答えが、やがてチェスカの名を冠することになるカンチレバーフレームだった。
機械に温もりを:手編みの籐とスチールの出会い
フレームができあがると、ブロイヤーは別の問題に直面した。スチールパイプだけで作られた椅子は、機械の中に座っているような感覚だった。
そこで彼は、当時としては異端とも言える決断をした。家具の最先端を行く構造に、最も古い手仕事のひとつである籐編みを組み合わせたのだ。籐編みは、中央ヨーロッパの椅子作りですでに何世代にもわたって受け継がれてきた技法だった。工場が生み出せない温もりは、人の手が補う。これこそバウハウスの真の信条だ。手仕事を拒絶するのではなく、産業と人の手のあいだで役割を分担すること。
「冷たい構造にも、手で触れられる場所をひとつ残しておく。」
おなじみの座面になる前の籐を、間近で見てみよう:
ブロイヤーが特許を取らなかった椅子
背もたれの後ろ脚がなく、浮かんでいるように見える椅子、カンチレバーの発想は、ブロイヤーだけのものではなかった。1927年、オランダ人建築家マルト・スタムは、ブロイヤー版が生産に至る直前、ミース・ファン・デル・ローエがシュトゥットガルトで企画した画期的な展覧会「ディー・ヴォーヌング」で、自身のカンチレバー構造の椅子を発表した。ブロイヤーはスタムが自分のアイデアを盗んだと考えていた。両方のデザインを製造していたオーストリアのメーカー、トーネットは、何年も続く特許紛争に巻き込まれることになった。
1932年、裁判所はスタム側の主張を認めた。カンチレバーの特許は彼に与えられ、一時期、トーネットのカタログでは椅子の構造上のコンセプトもそれに応じてスタムのものとされた。ブロイヤーは自身のバージョンを特許申請していなかった。その結果、トーネットからデザイン使用料は受け取ったものの、フレームそのものを独占する権利は得られなかった。こうした経緯もあり、この椅子の類似品は約1世紀にわたってさまざまな名前で流通してきた。一方、ライセンス生産された製品、現在チェスカと呼ばれる椅子は、ブロイヤー自身の工房に最も直接的に結びつく一脚として残っている。
チェスカ
1928年、この椅子にあったのは工場での名称だけだった。B32だ。「チェスカ」という名が登場したのは数十年後、イタリアのメーカー、ガヴィーナが生産を始め、ブロイヤーの若い継娘フランチェスカにちなんで名付けてからのこと。デザインが完成してからずっと後に、大量生産品がひそかに家族の名を受け継いだ、珍しい例だ。
